贖われた私たち
マタイ 26:36~46 フィリピ 2:5~11
 今日は、受難節の最後の日曜日です。今日は、一年の中でも、イエス様の十字架の出来事を深く、“私のこと”として受け止めなくてはならない大切な日です。
 イエス様は、“私たちを救う”ために十字架にかかって死んでくださったのですが、私たちはそのことの重さに気付かずに、また、忘れてしまうことが多いのです。
 今日お読みしたマタイによる福音書には、十字架にかけられる前の夜、ゲツセマネというところで、イエス様が切にお祈りされている時のことがかかれています。このゲツセマネというのは、“油をしぼる”という意味です。というのも、ここには、オリーブの木が沢山生えていて、ここで取れたオリーブを絞っていた場所なので“ゲツセマネ”と呼ばれるようになったそうです。  そう考えると、イエス様が、ここでどのような思いで、お祈りされていたのかが、伝わってくるのではないでしょうか。
 27章37節を見ていただくと、イエス様は“悲しみもだえ始められた”と書かれています。また、38節では「死ぬばかりに悲しい」とイエス様はおっしゃっておられます。さらに、イエス様は、父なる神さまに「できることならこの杯をわたしから過ぎ去らせてください」とも祈っておられます。これだけ読みましても、イエス様の十字架が、簡単なことではなかったということがわかります。
 ところで、聖書には、「あがない」という言葉がよく使われています。この「あがない」という言葉の意味、ご存じでしょうか。
 普段、日常会話の中でほとんど使うことがない言葉だと思います。なじみのない言葉ではありますが、この「あがない」という言葉は、とても重要な意味をもつ単語であり、また、聖書の中からこの単語がどう使われているのかを見ていきますと、イエス様がわたしを贖ってくださったことの意味がよくわかるのです。
 まず、一つ目は、「救い出す」「解放する」という意味です。この「救い出す」「解放する」という意味でよく使われているのは、出エジプト記です。これは、イスラエルの民が、エジプトで苦役を課され奴隷で苦しんでいるときに、神は、ご自分の民、イスラエルをエジプトから救い出しました。神様は、自分の力ではどうにもならない時に、救い出してくださる方なのです。
 二つ目は、「あがなう」という単語は「買い戻す」という意味です。これは、イスラエルの社会福祉に関係するもので、例えば、親族がお金に苦しんで借金をしたりした場合、また、苦しくて土地を売ってしまった場合など、それを親族が肩代わりするという意味で使われます。これは、買い戻す立場にいるものにとっては、損失を被るものなので、普通は、喜んではしません。つまり、神さまが「あなたをあがなう」という時、それは、痛みを追ってでも、あなたを取り戻すという意味となります。
 三つ目、それは、「見受けする・引き受ける」という意味です。これは、ただ、損失を被るだけではなく、自分がそれを引き受けるという意味です。たとえば、身寄りがない人を自分の傍に置くという意味となります。
 ここまで見ますと、「あがなう」という意味には、ただ、「助ける」「救い出す」ということだけはなくて、「解き放つ」という意味があり、助けるために「代価を支払って買い戻す」ということでもあることがわかります。そして、さらに、「引き受ける」という意味があるので、自分の傍に置こうとするという意味もあるのです。
 旧約聖書に「ルツ記」という書簡があります。短い書簡ですので、是非、一度、読んでみていただきたいと思います。
 どのような話か簡単に言いますと、昔、「ルツ」という異邦人の女性がいました。彼女はイスラエル人の男性と結婚したのですが、その夫は死んでしまいます。「ルツ」は義理の母「ナオミ」と一緒に生活するのですが、「ナオミ」の夫もすでにいませんでした。当時、女性だけが生きていくというのはとても難しいことでした。「ルツ」と「ナオミ」は「落ち穂を拾って生きていく」という貧しいみじめな生活しかできませんでした。そしてとうとう「ナオミ」は土地を手放そうとさえするのです。
 イスラエルの世界ですと、遠い親戚が「ルツ」や「ナオミ」を助けないといけません。でも、嫌がっているのが読んでいるとわかります。それは、自分の財産が減るということで嫌がっているのではありません。「ルツ」と「ナオミ」の跡継ぎを設けるために、「ルツ」を妻として迎えなければならないのです。普通でしたら、妻として迎えるくらいならいいかと思うかも知れませんが、「ルツ」は異邦人だったのです。当時、異邦人をめとることは嫌がられていました。  しかし、ひとり、そのようなリスクを負ってでも「ルツ」を向かいえれたいと思った人がいました。ボアズという人です。彼は、自分の財産を使い、さらには、異邦人の「ルツ」を自分の妻として迎えようともしたのでした。このことは、「ルツ」の立場からすると、自分のようなものを快く迎えてくれたわけですから、ボアズに心から感謝したことでしょう。
 私たちはイエス様によってあがなわれました。これは、「救われた」という表現だけでは言い表せません。私たちは、助け出したいなと思われないような汚れた罪人でした。でも、イエス様は、私たちを救い出すために、ご自身の命を代価として差し出してくださいました。さらには、私たちと、一つとなろうとしてくださったのです。   実は、もう一つ、「あながう」という単語の別の意味があります。それは、「覆う」という意味です。みなさまは「覆う」というと、どういうイメージがあるでしょうか。わたしには、守るために大切に包み込むというイメージがあります。でも、考えてみると、きれいなものは覆えますが、嫌なものであれば覆いたくありません。  先ほどの「ルツ記」の話しでは、ルツは、ボアズにめとってもらおうと、そばに近づき、ボアズに「はしためであるわたしを覆ってください」という風に言いました。
 きれいな存在であれば覆うことは簡単でしょう。しかし、汚れた者を覆うということは誰でもしたくないはずです。しかし、ボアズはルツを覆うのでした。同じように、神さまは、汚れた私たちまでも覆おうとしてくださるのです。
 今日は、受難節最後の日曜日、今週一週間は、受難週です。イエス様が、私たちを贖おうとして、ご自身の神としての尊い血を代価として支払おうとまでしてくださったことを覚える一週間です。
 この一週間、思い返してください。私たちは、そのような価値あるものだったのだろうかと。私たちは、決して、誇れるものではないはずです。神様が、私たちを必要としてくださり、また、取り戻したいと思ってくださったから救われたのです。イエス様は、そのために、霊的にも、肉体的にも、また、精神的にも、極限の状態にまで追い込まれて行かれました。さらにいえば、神の身分を捨て、死というものと縁のないお方なのに、死というものを通して私たちを救おうと十字架で死んでくださったのでした。私たちが信じている神さまは、これほどの愛を示してくださる神さまなのです。